そして長老が部屋に戻った時は一つの白い貝殻を持っていた。
「指に少しつけて舐めるだけで効くであろう。人ならばな。瘴気に当てられて数日は眠っ
たままであろう。むやみやたらに飲ますのではないぞ」
「はい」
 深く一礼するとその部屋から出て外に出た。そして月夜が休んでいる小屋に向かい顔色
を検分した。
「どれぐらい吸わせたのですか?」
「ざっと五分以上。長老にこっぴどく叱られた」
「気を落とされるな。この里の若者と比べればまだ可愛いよ」
 その言葉に深く溜め息をつきそっと月夜の頬をなでた。さっきの貝殻を取り出し人差し
指で少し取り水に溶かすと月夜にそっと飲ました。
 僅かに顔をしかめながらもそれを飲み一つ息を漏らした月夜は昏々と眠っているのであ
った。
「蒼華姉様」
 甘えたように夕香に飛びつく狐が二匹来た。夕香は微笑みを浮かべてそれを抱きとめて
膝の上でそっと撫でた。
「久しぶりね、雅喜、弓喜」
 笑う夕香を爺曰く畝那が目を細めて見ていた。四つの尻尾を持つ狐二匹は尻尾を振って
喜んでいた。夕香は人と天狐の合い子だが、この里では姫と敬えられている。それは天狐
が純粋に実力主義だからだ。夕香は天狐の里の中で二番目に力が強い。一番は夕香の父親
違いの兄、白空。だが、その兄は九尾に堕落した。ちなみに夕香の下にあの長老だ。
 御年千七百年を越すのだが、どうにか若い姿を保っている。天狐がさらに三千年生きる
と空狐と呼ばれる狐の神になる。未だに空弧になる天狐は少なくその多くは戦で殺される。
数少ない空狐候補なのだ。
 そして一番力が強いと称されていた白空はその力に驕り、同族や人間を殺めすぎたのだ。
 夕香が最後にあったのは十二の時だった。あの時は兄に襲われた人間の同い年くらいの
人を助けた。その人を助け人界に戻し、帰る途中一人の男性の亡き骸を発見し弔った。恐
らくその男の子の父親だろう。少ししかみてないからあまり覚えてないが、面差しが似て
いた。
 あのときには見えていた人と人とを繋ぐ糸がもう見えないのでその人が誰だかを特定す
る事が出来ない。もし会えたら父親の墓がここにあると教えたいのだ。
「蒼華様はお疲れだ。そろそろ母親のもとにお帰りなさい」
 畝那はそう言うと狐二匹を帰らせた。溜め息を吐くと夕香は月夜を見た。額に汗がにじ
み熱があるのは一目瞭然だった。
「畝那爺。水を張った桶と布ある?」
「今、準備します」
 畝那はそう答えると桶を外に持っていき水を張り持ってきた。布は小屋の中にある唐櫃
から手ぬぐいを出した。
「ありがとう」
 手ぬぐいを濡らし月夜の額ににじんだ汗を拭いもう一度濡らして月夜の額に置いた。
 ふっと月夜が目を開けた。その焦点は合ってなく見たこともない天井をゆっくりと見て
隣にいる夕香をみてほうと息を吐いてまた眠りに意識を落とした。その顔には安堵が満ち
ている。
「藺藤?」
 肩を揺すりかけたがそれを止めて深く溜め息を吐いた。布団を肩まで上げてとんと胸に
手を当てた。
「ゴメン」
 我知らず漏れた言葉は謝罪の言葉だった。そう言えばと思い布団を巻き上げて右足を見
た。案の定出血はしてはないもののぱっかりと傷口が開き筋組織を外にさらしていた。そ
れを癒してやり右手を手に取った。
 そこまでほぼ無意識の行動だった。なぜか心の奥で寂しいと叫ぶ誰かがいた。それは今
まで時たま現れるものだったがそれが誰かがやっと分かったかもしれない。
「寂しいの?」
 たまに感じるこの気持ちはまるで一人で雪山に軽装備で放り出されたような寒さと暗闇
の中に放り出されて当てもなく彷徨う様な孤独だった。
「畝那爺」
「はい?」
「移動するから手伝って。家にもの無いから桶と布借りるね」
 そう言うと月夜を背負って自らの小屋に移った。せんべい布団に月夜を寝かせると額に
乗せていた布を取って水に浸して汗が滲む首筋や顔をそっと拭い額にまたその布を乗せた。
 嫌いだったはずなのにとふと思って首を傾げた。苦しげに息を吐く彼を見ていて放って
置けなくなった。それは情なのか他の気持ちからなのか、どちらか分からなかった。
 冷え切った指先をそっと握りそっと頬を寄せた。それを両手で包み込むようにして握る
とそっと目を閉じた。
 この寂しい気持ちはよく味わってきている。なぜなら自分もまた孤独だった。いくら姫
としてここに居てもその寂しさは埋められなかった。むしろ深くしていた。そんな時、兄
がいなくなったのだ。
 父も母もいないのにただ独りの兄までもいなくなって夕香は何をすればいいか分からな
くなっていた。だから、ただ、一族の役に立とうとして術を磨いた。
 だが、そんな力も彼女の中の孤独を埋めてくれなかった。
 だから、ふとした時に引かれているのだろうか。ふとした拍子に視界にいるのは月夜だ
ったりすることが多い。自分では意識してないのだが、むしろ意識して視界に入れないよ
うにしているのだがふとした時に見ている。
「彼もまた、孤独の住人」
 ふと呟いていた。そしていきなりすとんと意識が眠りの闇に落ちた。いつもより簡単に。

 彼は夢を見ていた。寂しいと泣く少女と少年が出会う夢。ただの夢ではなかった。ただ、
現実にあったことだった。何故、自分以外の人のものも見ているのか。
 まだ、彼は気付いていない。彼と彼女の中に結ぶ糸があることを。
 深い闇の中、寂しいと、すごく寂しいと泣きじゃくっている少女がいた。昼間は大人や
自分より小さい子供たちの相手をしているのでその思いは胸にしまえるのだが夜は溢れ出
していた。夜な夜な泣いていた。
 行ってしまった兄の温もりを求めて。人の温もりを求めて。分からなかった。あの優し
い兄が同族を殺したのが。なぜ、九尾へと堕落したのかが。
 寒かった。とても寒くてとても辛くて。でもそれを分かってくれる人は誰一人といなく
て。
 どうすれば良いか分からなかった。ただ寒くて、逃げ出す術も持たずにただそこに蹲って、
少年と少女は出会った。
 少年も孤独だった。母親に置いてかれ、彼の孤独を癒していた父親の存在も迷処で消え、
殺され、親戚の家を転々と歩き孤独にむせび泣く事もせず心の中で泣いていた少年は、父
親を殺した九尾に復讐を誓った。孤独から抜け出したかった。だが、そのための訓練もも
一時的な気晴らしにしかならなかった。逃げ出す術にはならなかった。
 少年も少女も似た闇を抱えていた。似た孤独を抱いていた。
 少女は縋る者は無く、少年は、ただ一人の幼馴染にすがった。その結果が精神的感染。
インフェクションだった。



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